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2011年11月29日
駆け抜けてみた「函館の坂」と「町の歴史」
タイトルとおりです。
いつものように、早朝サイクリングに勤しむ「とうちゃん」に、
ふっとブログの神が降臨した。
そうだ!「函館の坂」と「歴史」を一気に駆け抜けてみよう。

最初から余談だけど、
iPhoneって本当に便利。
撮影した写真にはGPS情報が記録されているので、資料の整理が簡単だ。
上の写真のとおり、「とうちゃん」が駆け抜けた経路がGPS情報により、はっきりと確認できる。
便利な反面、iPhoneは、とても恐ろしい携帯電話でもある。
「友達を探す」というiPhoneのアプリケーションがある。
登録した相手の位置を24時間、かなりの精度で把握できてしまうものだ。
とてつもなく便利な反面、使い方を間違えると、恐ろしいアプリになる。
イベント会場で「とうちゃん」が勝手にチョロチョロしても、
「かあちゃん」はGPS情報により「とうちゃん」を簡単に探し出す事が出来る。
まさに電波の鎖でつながれている「とうちゃん」。
「息子」も、そのうち電波の鎖でつながれてしまうだろう。
話を戻して「函館の坂」について。
「函館の坂」が今のように直線に整理され始めたのは、明治11年、12年の大火後のこと。
そのため、これから紹介する「坂の歴史」は、現代の坂とは位置がずれている事もある。
西から東に向かって「函館の坂」を駆け抜けるけど、
写真は、坂の下からではなく、市電通りから撮影している。

「魚見坂」
函館最西端の坂で、山背泊方面の魚群を見る事が出来たことが由来。
「台町の坂」という別名を持っていた。
この坂を整備したのは、台町遊郭の経営者。
もう「台町」の地名自体、歴史になっているけれど。
最近「とうちゃん」が、お気に入りにしている地区でもある。

「船見坂」
坂の上にある「船見町」に由来する名前。
称名寺につづく坂なので「称名寺坂」とも呼ばれていた。

「千歳坂」
松陰坂、神楽坂と名付けられていた時代もある。
明治12年の大火後に出来た新しい坂。

「幸坂」
坂の上には「山上大神宮」がある。
神明社(坂本龍馬の従兄弟で有名な)があったので「神明坂」とも言われていた。
明治8年に付近の海岸が埋め立てられ「幸町」となったため、伴い「幸坂」と名付けられた。

「姿見坂」
誰の姿を見る事が出来たのだろう・・・
もちろん由来は、坂の上に存在していた遊郭にある。
坂の下に麹屋があったため、「麹屋の坂」と呼ばれていたこともある。

「常磐坂」
昔は、坂の上に大石忠次郎の芝居小屋があったことから「芝居町の坂」、
遊郭全盛期には、遊女との別れを惜しむ「見返り坂」とも言われていた。
なぜ「常磐坂」なのかは、良くわからなかった。

【弥生坂】
「弥生小学校」があったから「弥生坂」なのか?
「弥生坂」に面していたから「弥生小学校」なのか?
明治12年までは、2本の坂になっており、東側を「称名寺坂」、西側を「改心坂」といった。
「改心坂」は、もちろん遊郭帰りの草食系男子が好んで下った坂だろう。
肉食系男子の帰路はモチロン「見返り坂」だよね。

「東坂」
この坂も、明治12年までは2本に別れており、東側を白鳥坂(町年寄りの白鳥家があった)、
西側を「浄玄寺坂」と呼ばれていた。

「基坂」
函館で、もっとも有名な坂の一つで、かつての箱館の中心を走る坂。
坂の下には「里標」が置かれていた事から「基」の坂と呼ばれた。
坂の上には、江戸の中期に設置された亀田番所を初めとして、箱館奉行所→開拓使→渡島支庁となった。
現在は「旧函館公会堂」の方が目立っているけどね。
別名「御殿坂」とも呼ばれ(御殿は役所のこと)、その背後にある山は「御殿山」という。

【日和坂】
この坂の上にある木造の個人宅が、良い雰囲気を醸し出す坂。
観光どころではないけれど必見だと思う。
頑張って坂を上れば北海道最古の神社「船魂神社」がある。
名前の由来は、晴れた日に港を眺めるのに良い坂だから「日和」と名付けられた。

【八幡坂】
「基坂」と並んで、坂自体が函館の観光名所となっている「八幡坂」
「八幡」の由来は、明治11年の大火で焼失するまで、坂の上にあった函館八幡宮。
現在の八幡宮は谷地頭の方に移ったが坂の名前と石垣(未確認)は、この地に残された。
この坂が有名である理由が、
あるBIGな芸能人のCM撮影のロケ地になったから、というのは有名な話。

【大三坂】
「日本の道百選(104選)」の一つで有名な坂。
その景観は、言わずもがな。
名前の由来は、「大三」という旅籠屋が営業していたことにある。
「大三」が営業する前は「木下坂」と言い、木下さんが住んでいた事に由来する。
本当に素晴らしい雰囲気の坂。
大三坂の景観は、「三ツ星」以上だと思っている「とうちゃん」。
函館にお越しの際には、この景観を、是非是非感じていただきたい。
散策に疲れたら、近くには「カールレイモン」の直売所で、ホットドックも食べれるしね!

【二十間坂】
まさに二十間の幅員を有する坂。
名前の由来は、書くまでもないよね。
明治11年の函館大火後に出来た坂で、おそらく防火線としての機能を持たせたと「とうちゃん」は勝手に想像している。
ちなみに札幌市の中心部を走り、地下通路で注目を浴びている国道36号の幅員も二十間だ。
坂が出来た当初は「大工町坂」と呼ばれていた。
理由は大工が住んでいたからだろう。
時代の一等地ではあるけれど、出来た当時、職人が多く住んでいたということは、
その当時に地域が持っていた価値を如実に表している気がする。
坂を登ると右手には雄大な「東本願寺札幌別院」があり、その上には「自由の女神」が坂を見下ろしている。
良いか悪いかは難しいけれど、気まずい目立ち方をしている店だとは思っていた。
函館山に要塞を築いたときには、この坂から大砲を搬入した。
大砲の搬入に際して、たくさんの杭が打たれ、これにつまずく市民が不満を語っていたそうだ。

【南部坂】
まちづくりセンター(旧丸井)の脇の坂。
名前の由来は、南部藩の陣屋があったからだ。
陣屋の影も残されてはいないけど。

【谷地坂】
以前は谷地頭に向かう坂だったので、このように呼ばれた坂。
まぁ地味な坂・・・だね。

【護国神社坂】
護国神社が招魂社と呼ばれていた時代は「招魂社坂」と呼ばれていた。
別名を「倒産坂」とも呼ばれ、不敬にも坂に面した門を造ると、その店や家が倒産したらしい。
坂の下には、高田屋の屋敷跡地、ゴロウニンを幽閉した牢屋などがあった。

【あさり坂】
食用にされたアサリの貝殻が大漁に出土した事から名付けられた。
この貝塚の発掘には、「函館周辺には食人民族がいたかも・・・」
との大胆な仮説で有名なアメリカの動物学者「モース博士」も関わっている。
先日訪れた、創業100年以上の牛鍋屋「阿佐利」本店は、この坂の下で営業中だ。
どうですか?
西から東へ発展した函館の町並み。
函館大火による町の再編。
木造建築からコンクリート建築への移り変わり。
こんな函館観光も楽しいと思うんですが。
「とうちゃん」的には、ミーハーだけど「大三坂」がお気に入り。
元町を訪れた時には、必ず通ることにしている坂道だ。
「魚見坂」も好き。坂が持つ雰囲気というか、負のオーラ?が良い感じ。

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【参考】
函館市史
函館散策案内
函館町物語
正教会の伝道者 聖ニコライと足跡
日本に残される「イギリス領事館」を比べてみると
高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係
まだまだ間に合う!松前町の桜まつり
碧血碑の微妙な立場と石川啄木について
水鏡に映る 早朝の五稜郭の桜の花
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Posted by 「とうちゃん」 at 06:16│Comments(2)
│LOVE 函館
この記事へのコメント
おつかれさまでした~。
こうしてみると、やっぱりいいですね。
あれ?青柳坂は?? 今度はお忘れなく……。
あと、谷地坂の写真が違うような~。(うるさくてすみません)
こうしてみると、やっぱりいいですね。
あれ?青柳坂は?? 今度はお忘れなく……。
あと、谷地坂の写真が違うような~。(うるさくてすみません)
Posted by jandmstation at 2011年11月30日 00:59
jandmstationさん、こんにちは~
写真、指摘いただいてありがとうございました。
助かりました。
あと、青柳坂を抜かしてごめんなさい。
大事ですよね、青柳町!
私も大好きです。
写真、指摘いただいてありがとうございました。
助かりました。
あと、青柳坂を抜かしてごめんなさい。
大事ですよね、青柳町!
私も大好きです。
Posted by とうちゃん at 2011年12月01日 06:21