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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2015年06月14日

正教会の伝道者 聖ニコライと足跡

イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンというロシア人をご存知?




日本正教会の創建者で、修道名は「ニコライ」。
そう、函館市の有名な観光スポットにもなっているハリストス
正教会で有名なあのお方です。

1857年にサンクトペテルブルク神学大学に入学。
在学中に、高田屋嘉兵衛のロシア抑留とも関係の深いヴァーシ
リー・ゴローニン著「日本幽囚記」を読み、日本への渡航と伝
道に駆り立てられたニコライは、在日本ロシア領事館附属礼拝
堂司祭募集を知り志願したそうだ。

これは信仰心からくる衝動なのかな?
だとしたら「とうちゃん」には理解ができないけど、冒険心な
ら理解ができる。

その生涯を日本への正教伝道に捧げ、日露戦争中ですら日本に
とどまり、日本で永眠した聖者ニコライ。







【函館ハリストス正教会】

1861年、箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任したニコライは、日本史、東洋の宗教、美
術などを熱心に学んだ。
1869年、密かに、元土佐藩士で坂本竜馬の従弟であり神明社の宮司の婿であり、後の日本人初の司
祭となる沢辺琢磨、函館の医師酒井篤礼らに洗礼機密を授けた。
この頃、あの新島襄から日本語や古事記を教わり、英語や世界情勢を新島に教えている。



【東京に移住した聖ニコライ】

1873年、ロシア公使館が東京に開設されることになった。
ニコライは後任者に函館聖堂を任せて上京。
仏教研究のために外務省の許可を得て、増上寺の高僧について仏教を研究したんだって。
キリスト者の目には、日本の高僧はどのように映っていたのかな。

また、ロシアの皇族アレクサンドル公が来日したおりには明治天皇との間に通訳の役割を果した。




【東京復活大聖堂(通称 ニコライ堂)】

1891年に完成した東京神田にあるニコライ堂は、面積約800平方メートル、高さ35メートルのドー
ム屋根が特徴であり、日本で初めて、かつ最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築らしい。
ちなみに、あの沢辺琢磨は「まずは困窮する伝教者等の生活費に建設資金を使うべき!」と反対運動
を展開したんだって。すっかりキリスト者だよね。

そして関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る。





1874年、四谷、浅草、本所、日本橋や神田には講義所を設け、伝道活動を進めた。
1880年、イコン画家の育成のため、山下りんをペテルブルグ女子修道院に学ばせた。
1882年、に神学校の第一期生が卒業。
ロシアのペテルブルグ神学大学やキエフ神学大学に留学生を派遣。
1904年、日露戦争が開戦する前に臨時集会を開き、聖ニコライは日本に留まることを宣言。
日本人正教徒に、日本人の務めとして、日本の勝利を祈るように勧めた。
そして内務大臣、文部大臣が開戦直後に、正教徒とロシア人の身辺の安全を守るように指示した。
強力な警備陣を宣教団と敷地内に配置したので、正教宣教団と大聖堂は被害を受けることがなかった。
1912年、神田駿河台の正教会本会で没し、谷中墓地に葬られる。


もちろん函館市に住んでいた頃、聖ニコライの人生やハリストス正教会について調べたことはあったけ
ど、東京に住んでからの聖ニコライの活動は、今日、初めて調べたような気がするよ。

東京神田にあるニコライ聖堂は、函館のハリストス正教会と比べて、ずっしりと大きいけれど。
「とうちゃん」は、函館の教会の方が和風で可愛らしくって好きです。


参考文献 wikipedia、東京復活大聖堂教会HP  


Posted by 「とうちゃん」 at 15:39Comments(0)LOVE 函館

2014年07月19日

日本に残される「イギリス領事館」を比べてみると

ご無沙汰しています。
猛暑に負けず関東地方観光地の制覇を目指す「とうちゃん」です。

いよいよ夏本番を迎えて、夏休みの計画に頭を悩ませている方々も多いでしょう。
そんな方々の悩みの数だけ、「とうちゃん」のブログのアクセス数が伸びている今日このごろ。



本日は「旧イギリス領事館」にスポットを当ててみる「とうちゃん」です。


【函館市 旧イギリス領事館】

まずは基礎知識。
日本の鎖国体制を終わらせた「日米和親条約」は、1854年にアメリカ合衆国と締結した条約。
この条約によって日本は下田と箱館が開港されることになるんだよね、たしか・・。

ちなみにイギリスとの国交は、1854年に日英約定が締結されたことにより正式に成立。

箱館港の開港は1859年。
同年にイギリスとの貿易が開始されて初代領事C.P.ホジソン氏が着任し仮領事館を称名寺に開く。


【施設内に残された噴水】

今に残される「函館市旧イギリス領事館」の建物は、1913(大正2)年、イギリス政府工務省上海
工事局の設計によって竣工し、1934(昭和9)年に閉鎖されるまで領事館として使用されていた。

現在は開港ミュージアムや各種イベントに活用されて、観光客はもちろん「とうちゃん」にも愛さ
れる施設となっている。




場所は変わって「横浜市元町」にて「旧英国総領事公邸」を訪ねてみた。


【横浜市 イギリス館】

横浜港も函館港と同時の1859年に開港した。

港の見える丘公園で、ローズガーデンの薔薇に包まれ「横浜市 イギリス館」が建っている。
この周辺は、幕末から明治初期にかけてイギリス軍が駐屯していたらしい。
そのイギリス軍駐屯地に、1937年(昭和12年)、大英工部総署による英国総領事公邸が建て
られた。



コロニアルスタイルの建物は、当時の英国的美意識を感じさせる・・・というけれど。

その辺りの美的感覚は正直良くわからない「とうちゃん」ですが、ほぼ同じ時代に、イギリスによって
建てられた函館市と横浜市の建築物には、幾つもの共通点、同じ雰囲気を感じ取ることはできるかな。



で、肝心の「横浜市 旧イギリス領事館」ですが。




前の2つの建物と見比べるとちょっと雰囲気が異なるけれど、同時代の1931年(昭和3年)に建設され
た施設だ。



ちなみにこの場所は、日米和親条約締結の地でもあるんだよね。
吉田松陰がアメリカに渡ろうとして小舟で米軍艦に乗り付け、幕府の役人に捕らえられるという事件
が起こるのはこの時だ。


まさに日本史の教科書を旅しているような、模範的な旅人「とうちゃん」は今日も元気ですよ。


参考:「横浜線沿線散歩」「wikipwdia」   


Posted by 「とうちゃん」 at 22:50Comments(0)LOVE 函館

2013年05月25日

高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係

 高田屋嘉兵衛という幕末に生きた商人を知っていますか?

 教科書にも出てくるビックネームなので、聞いたことくらいならある人、多いと思います。
 特に函館に住んでいる人ならば「あぁ、護国神社坂の銅像の人ね」って思い出す
人も多いでしょ。

  


 農業に重きを置いていた江戸時代において。

 「農」に考え方の基盤を置き、お米を神聖視する。
 これが「重農主義」?ってヤツかな。
 
 でもね、農業技術が向上するにつれて食べるための農作物だけではなく、暮らしを豊かにするための
菜種、綿花などの商品となる農作物を生産するようになっていく。

 例えば、菜種100kgから10リットルしか取れなかった油。
 水車の活用など加工技術が向上して数倍の油を生産できるようになったとしたら。
 自分たちが使う分以上の油が生産できてしまうんだ。
 油の価格も下がり、町の人々がナイトライフを楽しめるようにもなる。



【高田屋嘉兵衛 造船所跡地】

 そうなると、できあがった商品を売ったり、運んだりする人が必要になってくるよね。

 商業を好まない江戸時代では。
 竜骨という船の背骨を禁止したり、多数の帆を張ることが禁止され、物流に制限が加えられていた。

 それでもね、過剰に生産された商品を売るために、海運が発達するのは自然の流れ。
 社会的地位が低かった商人に、富と力が集まってくるのは、当然の成り行き。




【日本幽囚記に描かれた「高田屋嘉兵衛」】
 

 ただ・・・いかに富と権力が集まってくる商人でも。
 やっぱり「士農工商」の「商」でしかない
 時節を読み、冒険を重ねて、大きな富を手に入れた大商人だとしても。

 江戸幕府の制度、当時の倫理、道徳には敵わない。
 内から外からの新しい時代の激流にさらされ軋みつつも、維持され続ける江戸幕府を頂点とする長い
時間を経て存在する社会規範。


 そんな時代を生き抜き、歴史に名を刻んだ大商人「高田屋嘉兵衛」


【北方歴史資料館にて】

 時代の荒波を読み、巧みに乗り越えつつも、あがらえない社会制度と時代倫理
 「商」でありながら「士」へ深入りすることの危険を理解しつつ、身分を超え
て生まれる信頼と義理、友情に心を振るわせ、僻地の寒村箱館の町を、道内の漁場を開発し、蝦夷地を
幕府にとって有益な地にするべく尽くしていく。


 不幸な偶然によりロシア軍艦に捕らわれ、厳しく過酷な生活環境に負けず、堂々と胸を張りロシア士
官リカルドと信頼と友情を育み、壊れかけの鎖国制度の基、日本に捕虜として捕らわれてたゴローニン
を釈放させるべく死力を尽くす。

  
  【北方歴史資料館にて「ゴローニン胸像」】

 蝦夷地が幕府直轄から松前藩へ復領されたことがきっかけで。
 松前藩に憎まれていた高田屋は、実弟で二代目金兵衛の時代に「旗合わせ」、「密
貿易」の嫌疑により、全財産を没収された。

 高田屋嘉兵衛資料館で没収された財産の目録が示されていたんだけど、北海道の金目の物、すべて
没収されたのでは?って思える程、莫大な財産だった。

 後日、高田屋四代目篤太郎の時代に無罪と認定されたけど、国庫に不正に没収された財産は、返納
されていない。



 失礼なことに「とうちゃん」は、大商人高田屋嘉兵衛の財産を馬鹿な二代目が食いつぶしたって
思っていたけれど。
 実は二代目金兵衛こそが、「士」に深入りする嘉平をたしなめ続け、実質高田屋を仕切っていた人物
であり、幕府に重用されたがために松前藩に憎まれた高田屋を、巧みに運営した人物だったんだ。

 嘉兵衛、そして彼が関わった人物達、さらに彼が関わった人達の伝記や紀行文を読みあさると。
 面白いほど立体的に、江戸末期から明治の北海道が浮かび上がってくる。
 

 「とうちゃん」も2年間、函館の町を散策し続けて、今更ながらも、ようやく知った出来た偉人の足跡。
 
 嘉平の生きた軌跡を知り、その足跡を巡る函館散策。
 プライスレスだね。

   

 こんな話を「夕子さん」に話したところ、高田屋ゆかりの純米酒「菜の花の沖」を引越祝いに頂きま
した。大変、美味しゅうござりました〜。ごちそうさまです。

 爽やかで飲みやすい日本酒を楽しみながら、こんなブログを書いてみた「とうちゃん」でした。  


Posted by 「とうちゃん」 at 11:42Comments(2)LOVE 函館

2013年05月13日

まだまだ間に合う!松前町の桜まつり

 愛染、明霞、曙染衣、浅黄、今市菊桜、江戸彼岸、歓歓、鬼無稚児桜・・・・・

 などなど、ステキな名前が与えられた桜たちが、仲良く咲き乱れる「松前さくらまつり」を訪れて
みた今日(平成23年5月13日)の「とうちゃん」一家です。




 早咲きの桜は、終わりかけている桜も多かったけど、南殿、雨宿、糸括なんかは、調度見頃
を迎えていた松前町。
 一葉、関山、普賢像などは、これからピークを迎えていくのかな?
 まだもう少し、可愛らしい桜を眺めることができるってことだろう。





 現地では、桜ガイドツアーなども行われていた。
 「とうちゃん」のような桜好きの素人には、非常にありがたいツアーだけど、時間が折り合
わず、残念ながら参加することは出来なかった。
 




 「とうちゃん」が訪れた日は、阿吽寺(海渡山真言宗)の境内が見頃を迎えていた。
 阿吽寺は、起源は16世紀頃、現在の地に移ったのは1617年と言われている由緒ある寺だ。
 見所は、明治政府により取り壊された福山城のうち、取り壊しを逃れることが出来た数少ない史跡、
その一つである「山門」だ。

 まぁ、歴史云々を抜きにしても、その境内の見事な桜に惹かれること間違いなしだね。
 



 咲き誇る桜だけじゃなくって、散った桜も楽しんでみよう。
 苔むした岩で出来た水路を流れる花びらが可愛らしい。

 
 


 約350年の歴史を持ち、北海道道南地方で行われている松前神楽が披露されていた。

 松前神楽は、松前藩第6代藩主・矩広により各神社で古くから行われてきた神楽の演技種目が統一
され、城内神楽として延宝二年(1674年)11月15日城内で行われたものがはじまりと言われている。
「松前ブロック保存会HP参考」

 国選択無形民俗文化財・北海道指定無形文化財に指定されている貴重なお神楽。
 その肩書から、もっと難しく理解し難いものを想像したけれど、これがこれが意外にもコミカルで
気さくに鑑賞することが出来た。
 特に「獅子舞」は見応えがあった。雄々しい動きで魅了しつつ、観客を巻き込んでいくハプニングの
演出に引きこまれちゃった。
 「息子」も無事に噛んでもらうことが出来たし。
 
 
 



 道北育ちの「とうちゃん」にとって、目に馴染みの無い花「椿」。
 大ぶりの見事な花に、ツヤツヤの深緑の葉。
 シャンプーにしたらヒットしそうなオーラに満ちている気がする。
 
 
 松前町を散策して思うこと。
 北海道の街を歩いていてみても感じることがなかった何かを感じる気がする。 
 もちろん同じ古都である函館や江差とも違う雰囲気。
 強いて言えば、上ノ国町と通じるものが無くもない気がする。



【参考 松前町観光協会HP】

  


Posted by 「とうちゃん」 at 22:19Comments(0)LOVE 函館

2013年05月11日

碧血碑の微妙な立場と石川啄木について


 碧血碑を訪れたのは、昨年の夏以来2回目だ。
 周囲には、随分と雑草が生い茂っている寂しいところだなぁ〜と思っていたけれど。





 桜が咲く季節に訪れてみると、なんとも可愛らしい二輪草が咲き乱れていた。
 時期を外すと、雑草にしか見えなかったのにね。
 「旬は大事」ってことを学んだ、人生の旬をいまいち迎えきれない「とうちゃん」です。
 
 
 
 この小さな可愛らしい二輪草が、意外にも高さが8mもある堂々とした碧血碑によく似合う。
 戊辰戦争、特に五稜郭で戦死した旧幕府軍約800人の戦死者を祀るために建立された碧血碑。
 



 「義に殉じた武人の血は、3年経つと碧色になる」という中国の故事にちなんだ「碧血」。

 「碧血」という言葉の由来に似つかわしくなく、碑陰には刻まれている文は、曖昧なものに
とどまっていることが興味深い。 


 「明治辰巳実有此事 立石山上叺表歔志」(碧血碑 碑陰)
 
 その意味は、「明治辰巳(明治2年)、これは実際にあった出来事。この山に石(碑)を建
立し、哀悼の意を捧げる」 ということらしい。
 碑文は、戦死した戦友たちに捧げたことは明白だけど、建立した当時、この文を刻み込むのは、
なかなかリスキーなことだったことは容易に想像できる。

 




 今日、碧血碑を訪れたのは「とうちゃん」一人ではない。

 「息子」と「かあちゃん」と「とうちゃん」、「とうちゃん」の「おかあさん」で「息子」の
「ばあちゃん」と「おかあさん」の「おかあさん」、いわゆる「とうちゃん」の「ばあちゃん」
で「息子」の「ひいばあちゃん」と一緒に訪れてみた。
 
 さて、問題です。
 「とうちゃん」は、いったい何人で碧血碑を訪れたでしょう?
 
 
 「ばあちゃん」は、「とうちゃん」が一人で訪れた時には、気づかなかったことをたくさん気づ
かせてくれた。
 小さな頃から、「とうちゃん」の世界を広げてくれた「ばあちゃん」は、今日もまた一つ「とう
ちゃん」の世界を広げてくれた。


 【函館の 臥牛の山の半腹(はんぷく)の 碑の漢詩(からうた)も なかば忘れぬ】

 「ばあちゃん」が、なにげに口にした歌で、石川啄木の「一握の砂」に収められている歌。

 啄木が「碧血碑」を訪れたのは、1907年(明治40年)で満21歳のとき。
 曖昧な碑陰の文に、堂々とした存在感の碧血碑。
 啄木がここで何を感じたのかは「とうちゃん」には知るすべは無いけれど、前の歌は、碧血碑
を歌ったものではなく、碧血碑を歌った碧血碑の片隅に、ひっそりと佇む歌碑を歌ったものらしい。




  戦骨全収海勢移 紛華誰復記当時
  鯨風鰐雨函山夕 宿草茫々碧血碑

 この碑には、明治初期の外交官で、のち元老院議官、貴族院議員等を歴任した宮本小一が、1901年
(明治34年)に参詣したときの歌が刻まれている。

 戦骨全められて収り海勢移り 紛華誰か復た当時を記せん
 鯨風鰐雨函山の夕 宿草茫々たり碧血の碑

 この歌の意味を知り、碧血碑を訪れてみて、ちょっとだけ啄木の歌の意味を理解できた気がしなく
もない。
 
 人の目を避けるように堂々と聳(そび)える碧血碑。
 杉の木々が茂る山の中の碧血碑には、今でも多くの人が訪れている。

 
 
 ちなみに「とうちゃん」1回目の訪問は、こんな感じだった。
   


Posted by 「とうちゃん」 at 13:46Comments(0)LOVE 函館