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2011年07月30日
函館の遊郭について 3
江戸の吉原に比するくらい、隆盛を極めた蓬来遊郭だったけど、
明治40年8月25日の大火で消失してしまった。
この大火は、東川町の石鹸製造所より出火し,非常に強い東風と飛火により各所に延焼したため,
消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して,14町全部を焼失,20町の一部を焼失させた。
以後、函館の大森町に遊郭が移ることになり、ここが函館遊郭とも呼ばれることになった。
時の函館市内の諸官庁、寺院、教会、有力商店を紹介する「富の函館」(1912年(明治45年)発行)
という本には、大森町などにある貸座敷、見番についての記載及び広告があった。
「○○楼は、何年創立で、住所は大森町○○番地、大火で焼けて移転した。楼主は○○で、電話番号○番・・」
などの記述に続き、遊女の芸名、本名、年齢の一覧が掲載されている。
さらに人気遊女については、写真も掲載されていた。
(人形を抱いた幼そうな遊女の写真も掲載されているところが・・・・)
値段、時間、利用方法等についての記載がなかったことが残念。
(この本は、函館中央図書館の閉鎖書庫に保管されていて、いつでも閲覧可能)
それにしても、官庁、宗教、有力企業の紹介雑誌に、風俗情報が掲載されていたなんて、現代では考えられない。
この大森遊郭時代の地図を注意深く見てみると、遊郭っぽい地域は、確かに記載されている。
しかしながら、個別の貸座敷等が記載されている地図が見当たらない。
そこで「富ノ函館」に記載されていた地番と昭和8年の地図に記載されている地番を照らし合わせてみる。
【昭和8年 大日本職業別明細図 函館市中央図書館蔵】
自分が考えていた以上に、遊郭の密集地は大門より西の方、函館山よりに合ったように感じられる。
市電の駅で言うと「大門」より「東雲町」の方が近いのかな。
でも絵葉書などの写真資料を見ていると、大門を超えて両脇に楼が並び、通りの一番奥には大森神社を確認できる。
町の区域、地番が自体が変更されたのかな?
・・・・知りたい。これで正しいのだろうか?
そんな大森遊郭も、昭和9年の大火で消失する。
(リンク先は、大火直後の函館遊郭大門付近)
函館随一の色町だった「函館遊郭」の入り口には、「大門」が設置されていた。
周囲の楼などの建物が焼け落ち見る影も無くなった焼け野原で、
この大門と遊郭入口近くに設置された蔵?、そして大森神社の鳥居がかろうじて確認できる。
その後も呼び名だけは残り、現代でもこの地区は「大門」と呼ばれている・・・
この写真は、上のリンク先にある「大火直後の遊郭写真」の現在の姿。
手前に見える蔵を手がかりとして、場所を特定してみた。
しかしながら現地をよく見ても、その大門の基礎すら残されていない。
倉の壁面は補修されており、それほどの古さは感じない。
そもそも「大門横町のどこに、「大門」が設置されていたのかな?」
現在「大門」を堂々と名乗る地域と、大森遊郭の大門の位置が一致しないところが、私を混乱させた。
結局のところ、大門横町に大門は無い事を理解した。
「大門」が持つ言葉の肝心なところは隠されているのに、
若松町・松風町一帯、電停の名前や、駅前から松風町方面に続く函館の中心街区の名称に広く使用されている。
この事が函館の「遊郭」の歴史を調べる発端になったと言っても過言ではない。
ここまで調べて、ようやく大門を理解できた気がする。
さて話を戻して、函館の遊郭は第二次大戦で座敷数も娼妓数も少なくなっていった。
敗戦直後には、廃業した業者も多数いたけど、
他ならぬアメリカ軍の函館占領とともに息を吹き返した。
「山ノ上遊郭」と同様に、
アメリカが函館の公娼制度の維持推進に深い関わりを見せる事になる。
敗戦直後に日本政府は「進駐軍関係特殊慰安施設の設営」を指示した。
もちろん占領軍が駐屯する函館市においても・・・・。
「絶えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき・・・」女性達が集まる施設が
アメリカ軍将校用として湯川に、下士官以下の施設として蓬莱町に設置される事になった。
(ちなみに、この言い回しは時の政府の言い回しを引用している)
自分たちで要求していたくせに、自国の世論に配慮してか、GHQは翌21年1月21日、
「日本における公娼の廃止に関する覚書」を発表し、24日「公娼制度廃止」を命令した。
内務省はこれを受けて娼妓取締規則および関係法規を廃止して明治時代から存続した公娼制度は廃止された。
しかし皮肉なことに、行き場の無い女性達が増え、結果として街娼が増加した。
それでも売春禁止・公娼制度復活反対の声は日増しに高まり、1956年(昭和31年)「売春防止法」は成立し、
赤線地帯・元の大森遊郭は営業を停止した。
余談になるけど、函館のおじさんから、
「おめぇ、昔はあの辺で焼きツブ売っていて、タチンボが沢山いたんだぁ」
ってリアルな歴史を聞かせてもらえた。
でも、よくよく話を聞くと昭和50年代じゃん。
大変、長い駄文に付き合っていただいてありがとうございました。
参考
函館市史
北海道遊里史考
明治40年8月25日の大火で消失してしまった。
この大火は、東川町の石鹸製造所より出火し,非常に強い東風と飛火により各所に延焼したため,
消防活動が思うようにならず,火勢は拡大して,14町全部を焼失,20町の一部を焼失させた。
以後、函館の大森町に遊郭が移ることになり、ここが函館遊郭とも呼ばれることになった。
時の函館市内の諸官庁、寺院、教会、有力商店を紹介する「富の函館」(1912年(明治45年)発行)
という本には、大森町などにある貸座敷、見番についての記載及び広告があった。
「○○楼は、何年創立で、住所は大森町○○番地、大火で焼けて移転した。楼主は○○で、電話番号○番・・」
などの記述に続き、遊女の芸名、本名、年齢の一覧が掲載されている。
さらに人気遊女については、写真も掲載されていた。
(人形を抱いた幼そうな遊女の写真も掲載されているところが・・・・)
値段、時間、利用方法等についての記載がなかったことが残念。
(この本は、函館中央図書館の閉鎖書庫に保管されていて、いつでも閲覧可能)
それにしても、官庁、宗教、有力企業の紹介雑誌に、風俗情報が掲載されていたなんて、現代では考えられない。
この大森遊郭時代の地図を注意深く見てみると、遊郭っぽい地域は、確かに記載されている。
しかしながら、個別の貸座敷等が記載されている地図が見当たらない。
そこで「富ノ函館」に記載されていた地番と昭和8年の地図に記載されている地番を照らし合わせてみる。
【昭和8年 大日本職業別明細図 函館市中央図書館蔵】
自分が考えていた以上に、遊郭の密集地は大門より西の方、函館山よりに合ったように感じられる。
市電の駅で言うと「大門」より「東雲町」の方が近いのかな。
でも絵葉書などの写真資料を見ていると、大門を超えて両脇に楼が並び、通りの一番奥には大森神社を確認できる。
町の区域、地番が自体が変更されたのかな?
・・・・知りたい。これで正しいのだろうか?
そんな大森遊郭も、昭和9年の大火で消失する。
(リンク先は、大火直後の函館遊郭大門付近)
函館随一の色町だった「函館遊郭」の入り口には、「大門」が設置されていた。
周囲の楼などの建物が焼け落ち見る影も無くなった焼け野原で、
この大門と遊郭入口近くに設置された蔵?、そして大森神社の鳥居がかろうじて確認できる。
その後も呼び名だけは残り、現代でもこの地区は「大門」と呼ばれている・・・
この写真は、上のリンク先にある「大火直後の遊郭写真」の現在の姿。
手前に見える蔵を手がかりとして、場所を特定してみた。
しかしながら現地をよく見ても、その大門の基礎すら残されていない。
倉の壁面は補修されており、それほどの古さは感じない。
そもそも「大門横町のどこに、「大門」が設置されていたのかな?」
現在「大門」を堂々と名乗る地域と、大森遊郭の大門の位置が一致しないところが、私を混乱させた。
結局のところ、大門横町に大門は無い事を理解した。
「大門」が持つ言葉の肝心なところは隠されているのに、
若松町・松風町一帯、電停の名前や、駅前から松風町方面に続く函館の中心街区の名称に広く使用されている。
この事が函館の「遊郭」の歴史を調べる発端になったと言っても過言ではない。
ここまで調べて、ようやく大門を理解できた気がする。
さて話を戻して、函館の遊郭は第二次大戦で座敷数も娼妓数も少なくなっていった。
敗戦直後には、廃業した業者も多数いたけど、
他ならぬアメリカ軍の函館占領とともに息を吹き返した。
「山ノ上遊郭」と同様に、
アメリカが函館の公娼制度の維持推進に深い関わりを見せる事になる。
敗戦直後に日本政府は「進駐軍関係特殊慰安施設の設営」を指示した。
もちろん占領軍が駐屯する函館市においても・・・・。
「絶えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき・・・」女性達が集まる施設が
アメリカ軍将校用として湯川に、下士官以下の施設として蓬莱町に設置される事になった。
(ちなみに、この言い回しは時の政府の言い回しを引用している)
自分たちで要求していたくせに、自国の世論に配慮してか、GHQは翌21年1月21日、
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しかし皮肉なことに、行き場の無い女性達が増え、結果として街娼が増加した。
それでも売春禁止・公娼制度復活反対の声は日増しに高まり、1956年(昭和31年)「売春防止法」は成立し、
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でも、よくよく話を聞くと昭和50年代じゃん。
大変、長い駄文に付き合っていただいてありがとうございました。
参考
函館市史
北海道遊里史考
正教会の伝道者 聖ニコライと足跡
日本に残される「イギリス領事館」を比べてみると
高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係
まだまだ間に合う!松前町の桜まつり
碧血碑の微妙な立場と石川啄木について
水鏡に映る 早朝の五稜郭の桜の花
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Posted by 「とうちゃん」 at 06:34│Comments(2)
│LOVE 函館
この記事へのコメント
はじめまして!結構前の記事にコメントすみません。函館生まれ、育ちで現在は東京に住んでます。大門のあたりに昔住んでました。私は20代なので、昔の函館は知らないのですが、昔の話とか由来にすごく興味があるので、面白かったです!
Posted by うさぎ at 2013年12月12日 08:39
うさぎさん、はじめまして!
嬉しいコメントアリガトウございました。
私は、2年間だけ函館に在住しましたが、素晴らしい町ですよね。
歴史ある函館の町は、知れば知るほど面白く。
共感していただけたこと、嬉しいです!
嬉しいコメントアリガトウございました。
私は、2年間だけ函館に在住しましたが、素晴らしい町ですよね。
歴史ある函館の町は、知れば知るほど面白く。
共感していただけたこと、嬉しいです!
Posted by 「とうちゃん」 at 2013年12月15日 20:24