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とことん遊ぶぞ 北海道! › LOVE 函館 › 「中島三郎助親子最後の地」碑を訪れてみた

2011年05月25日

「中島三郎助親子最後の地」碑を訪れてみた



箱館五稜郭祭の本日、
「中島三郎助親子最後の地」碑前祭を行うと聞いたので、訪れてみた。



函館税務署の側だけど、交通の便が悪く観光としては、行きにくいところ。




「中島三郎助」



榎本武揚、土方歳三とは違い、ごく最近知った人物だ。
しかし、調べるほどに、今まで知らなかった方が不思議に思えてくるぐらいの人物だ。


主な功績等は、

1853年(嘉永6年))ペリー艦隊が日本に来航した際、与力でありながら、
「副奉行」を称してペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に乗船し、対応をおこなった。
その後も、身分にも関わらず、その能力を買われ、米国使者の応対を勤める。

長崎海軍伝習所では、射撃と砲台築造を学び、木戸孝允に砲術を教授していた。
戊辰戦争では、幕艦開陽丸の砲術指揮者として榎本武揚らと箱館に進出し、
蝦夷島政府の箱館奉行並となって、千代ヶ岱陣屋(現在の千代台公園)の守備を指揮し、
明治2年5月16日同陣屋は新政府軍に攻撃され敵弾に倒れた。

彼は常々、千代ヶ岱は自分の最後自決の場所と言っていたらしい。
世界情勢にも明るく、日本の造船の先駆者でもある彼が、勝ち目は無い戦を続けた理由は?


だからこそ、現代においても「義士」と呼ばれ人々の尊敬を集めるんだろうね。


知識や実績だけではなく、「義士」としての華がある。






「中島三郎助親子最後の地」碑の側の通りは「陣屋通り」と呼ばれている。

1800年頃、蝦夷地の警備を行う仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、
千代台公園野球場付近の丘陵地に土塁を築き陣屋を置いたのが最初と言われる。
その後、択捉方面の問題が終息したため仙台藩は箱館から藩兵を引き揚げ、
1850年頃、津軽藩が道南の警備を行うことになった。
津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、仙台藩の千代ヶ岡陣屋跡地に元陣屋を置いたため、
この地が「津軽陣屋」と呼ばれるようになった。


(『函館市史』参考)




確かに丘陵地ではある。
でも、ここを訪れても陣屋だった雰囲気を感じれない。

でも、自転車で近所を走っていると、蔵がある民家を発見した。




陣屋があった時代には、物品を納めていたのかな?


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Posted by 「とうちゃん」 at 20:33 │LOVE 函館

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