岩で繋がる 乙巳役海軍戦死碑と函館護国神社

「とうちゃん」

2012年01月12日 22:43


心細くなるほど坂道を登り続けていく。
こんな長く急な坂道、自転車なんかで行くもんじゃないね。
「とうちゃん」の貧弱な太腿が、肉体の限界を呼びかけてくる。
挫折しそうになる事もあったけど。

そんな苦難を乗り越えると、
「乙巳役(きしのえき)海軍戦死碑」を拝むことができる。





普通の観光客で、ここまで訪れる人はいないだろう。
「とうちゃん」は、がんばったことをPRしたい。



この地は、1862年(明治2年)の函館戦争で戦死した新政府海軍慰霊の墓所。
函館湾海戦で新政府軍軍艦「朝陽」は、榎本軍軍艦の砲弾を受けて沈没した。
この石碑には、朝陽艦副艦長夏秋又之助以下73名の新政府軍海軍の戦死者名が刻まれている。
建立年月は刻まれていないが、明治2年に建立されたものと思われている。
碑の石は「高田屋の亀石」と呼ばれていた石の一部である。
高田屋嘉平衛全盛のころ、現宝来町に築かれた「高田屋御殿」と呼ばれた豪邸の庭園に据えら
れていたものである。嘉平衛が、貧民救済の目的をかねて住吉浜の海中にあった2畳敷ほどの
巨石を多数の人を動員して引き揚げさせたところ、亀に似ていたので亀石と呼ばれた。
護国寺(青柳町)にある「海陸軍戦死人名」碑と「招魂場」碑も同じか名刺を割って作られた
ものであり、いずれも函館戦争新政府軍死者を祀った記念碑である。


【現地立看板 参考】








【新政府海軍慰霊の墓所から見下ろす函館港】


緑色の空気が漂う新政府海軍慰霊の墓所。
周辺には意外にも人家が多く、昔は見通せたであろう函館港も建物の影に隠れてしまっている。



疲れたけれど・・・・せっかくなので、
高田屋嘉兵衛が飢饉対策の公共事業として市民に海中から引き揚げさせた「高田屋の亀石」の兄弟岩である
函館護国神社にある「招魂場」碑を訪れることにした。






【函館護国神社】



函館護国神社は、箱館戦争の政府側の戦没者をまつるために建てた「招魂場」が起源となっている。
その後、西南戦争(意外に多いらしい)から太平洋戦争までの戦没者の英霊がまつられた。

でも・・なぜだろう?

函館護国神社では、「縁結び」の御利益があると書かれていた。
戦没者の御霊が「縁結び」に対して力を持っている事に、素直に驚いてみた。

「とうちゃん」が独身で、「とうちゃん」じゃなかったら、お守りの一つでも奮発するところだ。




今回の神社参りの目的とも言える「招魂場碑」
たしかに石材の材質が「乙巳役海軍戦死碑」に似ているね。

豪商「高田屋の石」の意外な使われ方に、また一つ函館の魅力を感じる「とうちゃん」でした。





にほんブログ村


関連記事