高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係

「とうちゃん」

2013年05月25日 11:42

 高田屋嘉兵衛という幕末に生きた商人を知っていますか?

 教科書にも出てくるビックネームなので、聞いたことくらいならある人、多いと思います。
 特に函館に住んでいる人ならば「あぁ、護国神社坂の銅像の人ね」って思い出す
人も多いでしょ。

  


 農業に重きを置いていた江戸時代において。

 「農」に考え方の基盤を置き、お米を神聖視する。
 これが「重農主義」?ってヤツかな。
 
 でもね、農業技術が向上するにつれて食べるための農作物だけではなく、暮らしを豊かにするための
菜種、綿花などの商品となる農作物を生産するようになっていく。

 例えば、菜種100kgから10リットルしか取れなかった油。
 水車の活用など加工技術が向上して数倍の油を生産できるようになったとしたら。
 自分たちが使う分以上の油が生産できてしまうんだ。
 油の価格も下がり、町の人々がナイトライフを楽しめるようにもなる。



【高田屋嘉兵衛 造船所跡地】

 そうなると、できあがった商品を売ったり、運んだりする人が必要になってくるよね。

 商業を好まない江戸時代では。
 竜骨という船の背骨を禁止したり、多数の帆を張ることが禁止され、物流に制限が加えられていた。

 それでもね、過剰に生産された商品を売るために、海運が発達するのは自然の流れ。
 社会的地位が低かった商人に、富と力が集まってくるのは、当然の成り行き。




【日本幽囚記に描かれた「高田屋嘉兵衛」】
 

 ただ・・・いかに富と権力が集まってくる商人でも。
 やっぱり「士農工商」の「商」でしかない
 時節を読み、冒険を重ねて、大きな富を手に入れた大商人だとしても。

 江戸幕府の制度、当時の倫理、道徳には敵わない。
 内から外からの新しい時代の激流にさらされ軋みつつも、維持され続ける江戸幕府を頂点とする長い
時間を経て存在する社会規範。


 そんな時代を生き抜き、歴史に名を刻んだ大商人「高田屋嘉兵衛」


【北方歴史資料館にて】

 時代の荒波を読み、巧みに乗り越えつつも、あがらえない社会制度と時代倫理
 「商」でありながら「士」へ深入りすることの危険を理解しつつ、身分を超え
て生まれる信頼と義理、友情に心を振るわせ、僻地の寒村箱館の町を、道内の漁場を開発し、蝦夷地を
幕府にとって有益な地にするべく尽くしていく。


 不幸な偶然によりロシア軍艦に捕らわれ、厳しく過酷な生活環境に負けず、堂々と胸を張りロシア士
官リカルドと信頼と友情を育み、壊れかけの鎖国制度の基、日本に捕虜として捕らわれてたゴローニン
を釈放させるべく死力を尽くす。

  
  【北方歴史資料館にて「ゴローニン胸像」】

 蝦夷地が幕府直轄から松前藩へ復領されたことがきっかけで。
 松前藩に憎まれていた高田屋は、実弟で二代目金兵衛の時代に「旗合わせ」、「密
貿易」の嫌疑により、全財産を没収された。

 高田屋嘉兵衛資料館で没収された財産の目録が示されていたんだけど、北海道の金目の物、すべて
没収されたのでは?って思える程、莫大な財産だった。

 後日、高田屋四代目篤太郎の時代に無罪と認定されたけど、国庫に不正に没収された財産は、返納
されていない。



 失礼なことに「とうちゃん」は、大商人高田屋嘉兵衛の財産を馬鹿な二代目が食いつぶしたって
思っていたけれど。
 実は二代目金兵衛こそが、「士」に深入りする嘉平をたしなめ続け、実質高田屋を仕切っていた人物
であり、幕府に重用されたがために松前藩に憎まれた高田屋を、巧みに運営した人物だったんだ。

 嘉兵衛、そして彼が関わった人物達、さらに彼が関わった人達の伝記や紀行文を読みあさると。
 面白いほど立体的に、江戸末期から明治の北海道が浮かび上がってくる。
 

 「とうちゃん」も2年間、函館の町を散策し続けて、今更ながらも、ようやく知った出来た偉人の足跡。
 
 嘉平の生きた軌跡を知り、その足跡を巡る函館散策。
 プライスレスだね。

   

 こんな話を「夕子さん」に話したところ、高田屋ゆかりの純米酒「菜の花の沖」を引越祝いに頂きま
した。大変、美味しゅうござりました〜。ごちそうさまです。

 爽やかで飲みやすい日本酒を楽しみながら、こんなブログを書いてみた「とうちゃん」でした。

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