函館漁港と弁天台場跡に行ってみた
函館漁港は、明治29年に近代土木の父として有名な廣井勇博士が着工した、石積防波堤が現存している。
この石積防波堤は、小樽港の国内初の本格的外洋防波堤より1年早く着工したものらしい。
以前、
「小樽のみなと資料館」に行ってみた事を思い出す。
詳細な事は分からないが見る限りにおいて、海中に設置されている基礎は、
小樽港の防波堤と同じように、コンクリートのブロックが斜めに積まれているように見える。
・・・・地味だけど、
もの凄い土木史スポットだ。
基礎は日本の港湾史に輝く
「廣井勇博士」、
上に積まれている石材は鉄壁の守りを誇った
「弁天台場」の物を使う。
iPhone片手に釣りをしながら、この事実を調べてニヤニヤしてしまった。
弁天台場の写真 (この写真は、著作権が失われているらしい)
弁天台場は、江戸幕府が安政3年(1856)から文久3年(1863)にかけて、
外国船襲来に備えて箱館湾沖に建設され、設計者は武田斐三郎。
周囲390間余(約710m)、不等辺六角形で、上から見ると将棋の駒のような形。
総面積は11,611坪(約383,000m²)、 高さ37尺(約11.2m)の石垣をもつ土塁2,350尺(約780m)で囲まれる。
砲眼15門(60斤砲2、24斤砲13門)を装備し、非常に堅牢な造りだったらしい。
土石は主に函館山より切り出し、大手門などの重要な部分には、大坂から運んだ備前御影石を用いたといわれる。
工事は松川弁之助が請け負い、翌年から井上喜三郎がこれを引き継いだ。
なお、井上喜三郎は五稜郭の石工を行っている。
外国からの襲来に備えて設置された台場なのに、実際に使用されたのは箱館戦争においてだった。
箱館戦争終盤の箱館湾海戦において、新選組が中心となった旧幕府軍はこの台場にたてこもり奮闘したが、
箱館市内が新政府軍によって占領され孤立。
明治2年(1869)5月15日、本陣五稜郭に先立って弁天台場は新政府軍に降伏した。
ちなみに、土方歳三は孤立した弁天台場へ、救援に向かう際に討ち死にした。
明治30年頃に取り壊され、使われていた石材は函館漁港の護岸に使用されている。
(Wikipedia 参考)
(明治時代の函館古地図とフットパスルート(抜粋) こちらの
ページで配布しています。)
と、言うことで、息子の人生で初めての釣りに行ってみた。
釣り糸を垂れてから5分。
いきなり・・・見た事がない魚が釣れた。
なんっていう魚だろう?
ハゼと泥鰌がくっついたような・・・
その後は、ヒトデとか昆布とか釣れるばかり。
暇なので、巨大シャボン玉を作って周囲の方々を楽しませてみた。
・・・・それでも時間を持て余して、帰宅した。
中島廉売で売られているような魚を釣ってみたかったなぁ。
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