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2012年02月21日

生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた


最近、多忙な日常に振り回されっぱなしの「とうちゃん」。
そんな多忙な毎日を過ごし、フッと訪れたくなった函館市「台町(現在の船見町)」周辺。


この地域には、避ける事ができない人間の「死」に関する施設を多く見かける事ができ、
それが観光施設として、函館の魅力のひとつにもなっている。


生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【外国人墓地】

この地は、江戸の末期に日本に2つしかなかった玄関口のひとつ。
さらに、そんな函館の中でも「台町」こそ「玄関口の中の玄関?」だった。


数百年も続いた風習を突然に変革し、迎えることになった異国人。
当然、忌むべき者として考える人も多かっただろう。
その背景にある武力により、長い鎖国体制が抉じ開けられ、トップダウンで開かれた町。


「とうちゃん」の勝手な想像だけど、外国人の埋葬地を決めるのは、大変だったと思うよ。
やむ得ない事情から生み出されてきた「外国人墓地」。

最近、ブログを書かずに読みふけっている「吉村昭」先生の歴史小説。
江戸末期から明治初期までの歴史が詳しく書かれているので、興味のある方は是非読んできただいて、
読書後に当時の歴史的な背景を感じつつ、函館市台町を彷徨ってみて欲しいな。

ぜったい面白いから!




生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【中華山荘】

明治1 0年頃に作られたと言われている「中華山荘」。
中国人の墓地ではあるけれど、中国人は遺骨は本国に持ちかえる風習があるため、
その大きな敷地に反して、明治21年のものを最古に、わずか数基の墓があるだけらしい。

でもでも、煉瓦造りの「中華山荘」が、まぁまぁ素晴らしい。
青い空と白い雲、ひっそりと静かな「台町」に豪華に佇む煉瓦の塀は必見。





生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【堀川乗経とジョンミルンと妻トネ の墓】

整理した写真の中に含まれていた一枚の墓の写真。
「台町」で、この写真を撮影したのは昨年の夏。
その当時は、この墓が並んでいる意味を理解する事が出来なかったけれど。

この地は、明治20年(1887)の大火の後.西本願寺函館別院(昔の願乗寺)が境内の一部と引替えに
共同墓地のー部をもらったものらしい。


願乗寺の偉大な僧侶だった「堀川乗経」は、亀田川の流れを分流させ、函館の町に飲み水を提供した。
その僧侶の娘の名前は「トネ」、東京芝増上寺の開拓使仮学校女学校で学ぶほどの才女。
「ジョンミルン」はイギリスの地質学者でモースやブラキストンらと共に函館の貝塚を発掘した学者。

そんな二人が結婚したのは、明治14年。
周囲の風当たりは、現代に生きる「とうちゃん」には想像できないものがあったに違いない。
市民の範たる伝統的な僧侶の娘がイギリス人と結婚し、異国の地に旅立っていく。

やるもんだね。


「ジョンミルン」はイギリスで没したけれど、その死後に日本に帰国した「トネ」。


この並んだ墓には、函館の発展に寄与した偉大な家族の歴史がある。
まぁ、撮影した時は「なぜ外人と日本人が?」と言うくらいの認識だったけどね。





生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【天下の号外屋翁の墓】

「赤心」(いつわりのない心)は、日本武道の精髄を表すとして何事にも
赤を用いたと伝えられている「信濃助治翁の墓」

この赤さが凄い。
「毎年、塗っているのでは?」と思ってしまうほど凄い赤だ。




「台町」という地名の由来について

その名の由来は、今は無い「弁天台場」の土台の土を採取する地だったとか、
江戸と呼ばれた時代、「矢不来台場」と向き合い箱館を守備していた「山背泊台場」があったこと
から名付けられたとか。

いずれにしても「台場」に関する土地らしいことは確かだろう。


この山背泊台場は南部藩が守備をまかされ、現在も台町には「南部藩藩士の墓」が残されている。

       生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた




明治6年には「豊川遊郭」が移転して「台町遊郭」が開かれ隆盛を極めた。
近所の高龍寺から聞こえる暁の鐘が、遊女との別れの切なさを奏でていたことだろう。

当時の隆盛を残す物は少ない町並みだけれども。
そこを想像力で補うのが、歴史探検の面白いところだよね。




      生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【有無両縁塔】

古くから山背泊地蔵寺として親しまれてきた寺の前庭に建立された「有無両縁塔」(1864年頃)。
この塔の施主は、当時の遊女屋25軒。
遊女の供養として建てたもので、遊女屋の主の他に、遊女の名前も刻まれていた。
寺前には、高清近太夫の墓(1860年頃)などもあるが、寺の外に設置されていることも興味をそそられる。




生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

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【高龍寺 山門】

それにしても「高龍寺」山門の彫刻の素晴らしさには目を見張るものがある。
観光地からは、ちょっと離れているけれど是非見て欲しい函館観光のスポットだ。


また、箱館戦争のときに野戦病院となった高龍寺で斬殺された会津藩士を供養する碑

「傷心惨目(しょうしんざんもく)の碑」

にも注目したい。

碑には「撰宋岳飛真蹟李華古戦場文字勒石」と刻まれている。
簡単に言うと、「宋の有名な将軍「岳飛」の真蹟で、仲間を弔う」って感じだろうか。
添文には、岳飛・文天祥・顔真卿・蘇東坡の四人の文字を、楷書・行書・草書の字を混ぜて刻んだ、
非常に珍しいタイプの碑となっているようだ。



生きる事と死ぬ事が作り上げる 函館市台町を彷徨ってみた

【旧函館検疫所】

1885年(明治18年)、内務省は防疫体制の強化を図るため、
当時の主要港であった函館、新潟、横浜、神戸、下関、長崎に、日本で最初の常設消毒所を設置。
1886年(明治19年)隔離室が併設されて、函館消毒所として検疫業務が開始された。
第2次大戦中には、仮設アメリカ 函館俘虜収容所本所としても使用された。
昭和43年(1968年)、検疫所は市内海岸町に落成した港湾合同庁舎内に移転。

現在は、ゆっくり流れる夏の夕暮れを、モダンに香るハーブティを楽しみつつ、
素敵なひと時を過ごすことができる「ティーショップ夕日」として活用されている。



「検疫所」があるからには「隔離施設」も存在していた時代もある。
さらに奥地へ進んで行くと函館市の「斎場」にたどり着くことができる。


函館市の台町(現在の船見町など)は、
町の成り立ちが、それなりの歴史の上にある事が良く理解できる地域でもあると思う。




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Posted by 「とうちゃん」 at 22:27│Comments(0)LOVE 函館
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