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2011年07月24日
亀田川の歴史散策に行ってみた
美味しい水、飲めていますか?
人と水と町の関わりって、当たり前すぎて忘れがちだけど、とっても大事だよね。
「とうちゃん」の家の近所に流れる「亀田川」

函館市北部の袴腰山を源に黒井川と赤井川として南に流れる。
途中合流し、タタラ沢川の源流部をかすめ新中野ダム(なかの湖)へ流入する。
公立はこだて未来大学の東を流れ、笹流川と合流、五稜郭付近まで道道347号赤川函館線に沿って流れ、
大森浜より津軽海峡に注ぐ。
古い地図を見ていると、いつも気になっていた亀田川。
どうやら2回の大規模な流れの切替工事を行い、現在の形になっているらしい。
自然河川としての「亀田川」は、現在の梁川交通公園の裏手付近より亀田八幡宮方面へ流れ、
北洋銀行万代町支店付近で函館港に注いでいた。
1702年(元禄15年)~1703年(元禄16年)、亀田川の大洪水が発生し、
その時の土砂で河口付近が埋まり船が着けなくなった。(亀田湊の衰退と箱館湊が発展)
古い時代の地図には「砂止め場」の形跡が残されている物もある。
亀田川の水は、五稜郭の濠、箱館奉行所役宅への給水、箱館奉行所への給水などにも使用された。
桧の板で作られた箱型の樋を地下に埋めて引き込んだ。
濠の水は常に新しい水が流入し、飲むのに適しており、冬期間には「函館氷」として切り出された。
その後に、発展を続ける都市「箱館」への生活用水確保を主たる目的として、
1859年(安政6年)願乗寺の僧侶、堀川乗経が中心となり函館方面へ分流させた。
この分流は都市の飲料水を始めとして、水運にも活用された。
周囲の水が排水されることにより湿地が乾燥して、亀田川両岸が急速に発展した。

【函館中央図書館 蔵(文久2年の函館図)】
しかし「亀田川」は、大量の土砂を函館港内に運び続けたため、
次第に大型化していく輸送船に対応できる深度を保てなくなっていった。
1877年(明治10年)頃から、コレラなど伝染病が出始めたために、横浜に次いで日本で2番目の近代的水道が作られた。
1888年(明治21年)飲料水確保の用水路として不要となった「亀田川」は、大森浜への転注を行い、新川掘割を行った。

【埋め立てられる前の願乗寺川(明治17年作成) 函館市中央図書館蔵】
なお、流れを失った旧亀田川(願乗寺川)は、水が澱み、悪臭を放つドブ川となったため、
1889年(明治22年)に埋め立てられた。

【大森浜に注ぐ新川(新亀田川)(明治44年作成) 函館市中央図書館蔵】
この図面でも分かるように、願乗寺川は消えても、古亀田川は残されていたらしい。

【古亀田川が消えた函館地図(昭和11年)函館市中央図書館蔵】
こんな事を考えながら、亀田川(新川)をサイクリングしてみた。

【亀田川の下流】
よく見ると、川幅が広く、まっすぐに流れていくのがよくわかる。
でも、この水量で舟が運行できたと言う疑問は残るけど。

【亀田川の河口】
函館の人の喉を潤し、不要な火を消火して、箱館の発展を支えた亀田川。
上水道の整備とともに、不要と言われ大森浜に追われた亀田川。
人と川の関わり・・なかなか奥深いものがあるね。
【参考】
函館市史
Wikipedia
函館中央図書館の古地図

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人と水と町の関わりって、当たり前すぎて忘れがちだけど、とっても大事だよね。
「とうちゃん」の家の近所に流れる「亀田川」

函館市北部の袴腰山を源に黒井川と赤井川として南に流れる。
途中合流し、タタラ沢川の源流部をかすめ新中野ダム(なかの湖)へ流入する。
公立はこだて未来大学の東を流れ、笹流川と合流、五稜郭付近まで道道347号赤川函館線に沿って流れ、
大森浜より津軽海峡に注ぐ。
古い地図を見ていると、いつも気になっていた亀田川。
どうやら2回の大規模な流れの切替工事を行い、現在の形になっているらしい。
自然河川としての「亀田川」は、現在の梁川交通公園の裏手付近より亀田八幡宮方面へ流れ、
北洋銀行万代町支店付近で函館港に注いでいた。
1702年(元禄15年)~1703年(元禄16年)、亀田川の大洪水が発生し、
その時の土砂で河口付近が埋まり船が着けなくなった。(亀田湊の衰退と箱館湊が発展)
古い時代の地図には「砂止め場」の形跡が残されている物もある。
亀田川の水は、五稜郭の濠、箱館奉行所役宅への給水、箱館奉行所への給水などにも使用された。
桧の板で作られた箱型の樋を地下に埋めて引き込んだ。
濠の水は常に新しい水が流入し、飲むのに適しており、冬期間には「函館氷」として切り出された。
その後に、発展を続ける都市「箱館」への生活用水確保を主たる目的として、
1859年(安政6年)願乗寺の僧侶、堀川乗経が中心となり函館方面へ分流させた。
この分流は都市の飲料水を始めとして、水運にも活用された。
周囲の水が排水されることにより湿地が乾燥して、亀田川両岸が急速に発展した。

【函館中央図書館 蔵(文久2年の函館図)】
しかし「亀田川」は、大量の土砂を函館港内に運び続けたため、
次第に大型化していく輸送船に対応できる深度を保てなくなっていった。
1877年(明治10年)頃から、コレラなど伝染病が出始めたために、横浜に次いで日本で2番目の近代的水道が作られた。
1888年(明治21年)飲料水確保の用水路として不要となった「亀田川」は、大森浜への転注を行い、新川掘割を行った。

【埋め立てられる前の願乗寺川(明治17年作成) 函館市中央図書館蔵】
なお、流れを失った旧亀田川(願乗寺川)は、水が澱み、悪臭を放つドブ川となったため、
1889年(明治22年)に埋め立てられた。

【大森浜に注ぐ新川(新亀田川)(明治44年作成) 函館市中央図書館蔵】
この図面でも分かるように、願乗寺川は消えても、古亀田川は残されていたらしい。

【古亀田川が消えた函館地図(昭和11年)函館市中央図書館蔵】
こんな事を考えながら、亀田川(新川)をサイクリングしてみた。

【亀田川の下流】
よく見ると、川幅が広く、まっすぐに流れていくのがよくわかる。
でも、この水量で舟が運行できたと言う疑問は残るけど。

【亀田川の河口】
函館の人の喉を潤し、不要な火を消火して、箱館の発展を支えた亀田川。
上水道の整備とともに、不要と言われ大森浜に追われた亀田川。
人と川の関わり・・なかなか奥深いものがあるね。
【参考】
函館市史
Wikipedia
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Posted by 「とうちゃん」 at 06:57│Comments(0)
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