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2011年07月02日
函館の遊郭について 2
江戸の時代から続いた「山ノ上遊郭」。
繁栄を続けたこの地域にも転機が訪れるのは、明治4年。
同年10月27日(陽暦)午前1時頃,山ノ上町切見世長屋から出火。
1123戸を焼失させるほどの大火。
この大火を俗に「切見世火事」といい,その火災原因は遊野郎が切見世において故意か誤ってか,
羽目板の節穴に煙草の吸殻を落としたものと伝えられている。
(HP 函館市消防局 参考)
この頃になると山ノ上町付近は人家も増加し市街の中心となってきていた。
この大火を契機に遊郭を移転することになり、山ノ上遊郭の遊女屋・引手茶屋には住所替えが命じられ、
移転先は、台町、豊川町そして「大工町地続大森浜通」で、整備されたのちは「蓬莱町」と呼ばれる約2万余坪の地。
「いや〜、いきなり言われてもねぇ。」
と言いつつも、当時新規参入を制限していた遊郭では、
「早い者勝ちで、遊女屋、引手茶店、25店まで蓬莱町に出店権利を与えるけど・・・」
黙っていられないのが、いままで既得権者から権利を借りて営業を行ってきた店長さん達。
もっと黙っていられない既得を得ている人たち。
そんなこんなで、函館の東の町はずれに、こつ然と現れたのが函館の東郭「蓬莱町遊郭」。
この遊郭を建設する際には、体された五稜郭の木材も融通してもらい、急ピッチで進められたらしい。
(函館港名家及実業家一覧地図 函館市中央図書館蔵)
遊郭の移転に伴い遊女屋、引手茶屋を得意先としていた、髪結い・鮨屋・荒物屋・仕立て屋・
塗り師・風呂屋・三味線張り替え・青物屋・表具師・小商い・小間物屋・豆腐屋・手踊り指南・
左官・揚げ物屋・搗入(つきいれ)屋などが、遊郭周辺に移転届けを提出している。
明治の15年頃には貸座敷数も40軒前後を数え、
「蓬莱町の繁華は芳原(よしわら)に比す」といわれたように隆盛を極めた。
(函館市史 参考)
明らかに遊郭を中心に一つの生活の場が形成されていたことがわかる。
人が集まるところに遊郭ができるのではなく、遊郭ができて町が形成されている。
古い地図と現代の地図を見比べるのは、大変興味深いものがある。
あの千秋庵本店があった場所も、この時代は遊郭内であった。
でも、千秋庵総本家って1860年の創業なんだけど・・・・
開業時は違う場所だったのかな?それとも○○楼の中に店を構えていたのかな?
結局この回答は「富ノ函館」という本に書かれていた。
探せば見つかるもんだね。
【蓬莱町以外の遊郭について】
豊川町は、指定を受けた矢先の明治6年3月に豊川町裏町から出火した″屋根屋火事″で町の大半を焼失。
ここは本来は水運の便が良く倉庫や商店を建てるのに良い場所とみなされていた地域であったため、
函館支庁はこの火事を機に、焼失した貸座敷業者で同業を続けたい者は蓬莱町か台町へ移転するように布達を出した。
台町は、貸座敷惣代から既に同地での営業者が20軒前後となり、
「増えすぎるもの・・・風紀が乱れますよね?お役人様。」
と言ったかは知らないけれど、新規開業不許可の達を出し、貸座敷数20軒ほどの規模におさえられた。
この場所は、有名なお寺が多い地域だけど・・・。
(函館漁港での釣りの写真に、偶然にも映っていた台町遊郭付近)
さらに函館県時代に入ってまもない明治16年に規則の改正が行われ、
蓬莱町・台町のほかに台町周辺の天神町と駒止町、温泉地の谷地頭も加えられている。
(ちなみに明治32年の地図では、谷地頭以外の遊郭の場所は確認できるんだけど・・・)
明治期は、こんな感じで遊郭が設置されていったらしい。
さらに娼婦の出身についても明治28年の資料を参考に考えてみる。
北海道 37人
函館 171人
青森 72人
秋田 21人
山形 20人
新潟 31人
その他 ・・・
合計 390人
北海道出身者は、全体の53%となっている。
(この資料は、北海道遊里史考を参考にさせてもらっています)
その後の北海道人の割合の推移は見ていくと、
明治35年には36%、明治42年には16%と北海道人の割合が低下していく。
さらに北海道外の出身地を見てみると、青森、秋田、山形及び新潟の割合が多い。
これは、当時主流だった物資の運搬経路、船の寄港地と一致すると思われる。
この時期の東北地方は凶作に見舞われ、娘の身売りが多かったらしい。
学生時代、歴史の教科書に載っていた東北地方の飢饉に伴う「娘の身売り」を、
ここで復習するとは、夢にも思わなかった。
さらにもうひとつのデータ。
当時の地方税に占める娼婦からの収入の割合についてもの凄い数値が残されている。
例えば明治12年の「函館支庁管内」の地方税のうち、86%が遊女関係職種で占められていたらしい。
呆れる割合だ。
娼婦は様々な人から搾取され続けていた事がわかるとともに、その悲惨さも理解できてくる。
参考
函館市史
函館の古い地図
北海道遊里史考
繁栄を続けたこの地域にも転機が訪れるのは、明治4年。
同年10月27日(陽暦)午前1時頃,山ノ上町切見世長屋から出火。
1123戸を焼失させるほどの大火。
この大火を俗に「切見世火事」といい,その火災原因は遊野郎が切見世において故意か誤ってか,
羽目板の節穴に煙草の吸殻を落としたものと伝えられている。
(HP 函館市消防局 参考)
この頃になると山ノ上町付近は人家も増加し市街の中心となってきていた。
この大火を契機に遊郭を移転することになり、山ノ上遊郭の遊女屋・引手茶屋には住所替えが命じられ、
移転先は、台町、豊川町そして「大工町地続大森浜通」で、整備されたのちは「蓬莱町」と呼ばれる約2万余坪の地。
「いや〜、いきなり言われてもねぇ。」
と言いつつも、当時新規参入を制限していた遊郭では、
「早い者勝ちで、遊女屋、引手茶店、25店まで蓬莱町に出店権利を与えるけど・・・」
黙っていられないのが、いままで既得権者から権利を借りて営業を行ってきた店長さん達。
もっと黙っていられない既得を得ている人たち。
そんなこんなで、函館の東の町はずれに、こつ然と現れたのが函館の東郭「蓬莱町遊郭」。
この遊郭を建設する際には、体された五稜郭の木材も融通してもらい、急ピッチで進められたらしい。
(函館港名家及実業家一覧地図 函館市中央図書館蔵)
遊郭の移転に伴い遊女屋、引手茶屋を得意先としていた、髪結い・鮨屋・荒物屋・仕立て屋・
塗り師・風呂屋・三味線張り替え・青物屋・表具師・小商い・小間物屋・豆腐屋・手踊り指南・
左官・揚げ物屋・搗入(つきいれ)屋などが、遊郭周辺に移転届けを提出している。
明治の15年頃には貸座敷数も40軒前後を数え、
「蓬莱町の繁華は芳原(よしわら)に比す」といわれたように隆盛を極めた。
(函館市史 参考)
明らかに遊郭を中心に一つの生活の場が形成されていたことがわかる。
人が集まるところに遊郭ができるのではなく、遊郭ができて町が形成されている。
古い地図と現代の地図を見比べるのは、大変興味深いものがある。
あの千秋庵本店があった場所も、この時代は遊郭内であった。
でも、千秋庵総本家って1860年の創業なんだけど・・・・
開業時は違う場所だったのかな?それとも○○楼の中に店を構えていたのかな?
結局この回答は「富ノ函館」という本に書かれていた。
探せば見つかるもんだね。
【蓬莱町以外の遊郭について】
豊川町は、指定を受けた矢先の明治6年3月に豊川町裏町から出火した″屋根屋火事″で町の大半を焼失。
ここは本来は水運の便が良く倉庫や商店を建てるのに良い場所とみなされていた地域であったため、
函館支庁はこの火事を機に、焼失した貸座敷業者で同業を続けたい者は蓬莱町か台町へ移転するように布達を出した。
台町は、貸座敷惣代から既に同地での営業者が20軒前後となり、
「増えすぎるもの・・・風紀が乱れますよね?お役人様。」
と言ったかは知らないけれど、新規開業不許可の達を出し、貸座敷数20軒ほどの規模におさえられた。
この場所は、有名なお寺が多い地域だけど・・・。
(函館漁港での釣りの写真に、偶然にも映っていた台町遊郭付近)
さらに函館県時代に入ってまもない明治16年に規則の改正が行われ、
蓬莱町・台町のほかに台町周辺の天神町と駒止町、温泉地の谷地頭も加えられている。
(ちなみに明治32年の地図では、谷地頭以外の遊郭の場所は確認できるんだけど・・・)
明治期は、こんな感じで遊郭が設置されていったらしい。
さらに娼婦の出身についても明治28年の資料を参考に考えてみる。
北海道 37人
函館 171人
青森 72人
秋田 21人
山形 20人
新潟 31人
その他 ・・・
合計 390人
北海道出身者は、全体の53%となっている。
(この資料は、北海道遊里史考を参考にさせてもらっています)
その後の北海道人の割合の推移は見ていくと、
明治35年には36%、明治42年には16%と北海道人の割合が低下していく。
さらに北海道外の出身地を見てみると、青森、秋田、山形及び新潟の割合が多い。
これは、当時主流だった物資の運搬経路、船の寄港地と一致すると思われる。
この時期の東北地方は凶作に見舞われ、娘の身売りが多かったらしい。
学生時代、歴史の教科書に載っていた東北地方の飢饉に伴う「娘の身売り」を、
ここで復習するとは、夢にも思わなかった。
さらにもうひとつのデータ。
当時の地方税に占める娼婦からの収入の割合についてもの凄い数値が残されている。
例えば明治12年の「函館支庁管内」の地方税のうち、86%が遊女関係職種で占められていたらしい。
呆れる割合だ。
娼婦は様々な人から搾取され続けていた事がわかるとともに、その悲惨さも理解できてくる。
参考
函館市史
函館の古い地図
北海道遊里史考
正教会の伝道者 聖ニコライと足跡
日本に残される「イギリス領事館」を比べてみると
高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係
まだまだ間に合う!松前町の桜まつり
碧血碑の微妙な立場と石川啄木について
水鏡に映る 早朝の五稜郭の桜の花
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Posted by 「とうちゃん」 at 07:14│Comments(1)
│LOVE 函館
この記事へのコメント
調べ物をしていたらここに辿り着きました。
山の上町の遊郭が知りたかったのです。
松浦武四郎の本を読んでいたら、「山の上の町の三階で官史が糸娥(公娼・芸妓)と宴会していて、武蔵野の料理が出ている・・・。
」とありました。三階の楼は現池見石油の武蔵野楼しか無かったと思ったのですが、山の上にもあったのだろうかと思った次第です。
山の上町の遊郭が知りたかったのです。
松浦武四郎の本を読んでいたら、「山の上の町の三階で官史が糸娥(公娼・芸妓)と宴会していて、武蔵野の料理が出ている・・・。
」とありました。三階の楼は現池見石油の武蔵野楼しか無かったと思ったのですが、山の上にもあったのだろうかと思った次第です。
Posted by も~さん at 2011年10月25日 07:01