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2011年06月26日
函館の遊郭について 1
人間の半分は女性だ。
しかしながら歴史を勉強していると感じる事。
登場人物の大半は男である。
でも、記録する事、語る事自体を恥とされ、歴史から埋もれていく人々がいる事も事実だ。
そのような人々は、人として扱われず、都合の良い道具となり歴史の闇に埋もれていく。
自分が生活している地域の事なのに、郷土史を学ぶまで知らなかった事実がたくさんある事に驚く。
能動的に動かないと、表に出る事のない事実。
多々のケースで、町の繁栄の中心にありつつ、歴史から隠されてしまう存在。
町を散策していると感じる違和感がある。
「なぜココに?」「いったい何のため?」
ここを理解するためにも、
「函館の遊郭の歴史」について、いろいろ調べてみた。
※ 性的な描写は無いけれど、見たくない人は見ないでね。
しかしながら歴史を勉強していると感じる事。
登場人物の大半は男である。
でも、記録する事、語る事自体を恥とされ、歴史から埋もれていく人々がいる事も事実だ。
そのような人々は、人として扱われず、都合の良い道具となり歴史の闇に埋もれていく。
自分が生活している地域の事なのに、郷土史を学ぶまで知らなかった事実がたくさんある事に驚く。
能動的に動かないと、表に出る事のない事実。
多々のケースで、町の繁栄の中心にありつつ、歴史から隠されてしまう存在。
町を散策していると感じる違和感がある。
「なぜココに?」「いったい何のため?」
ここを理解するためにも、
「函館の遊郭の歴史」について、いろいろ調べてみた。
※ 性的な描写は無いけれど、見たくない人は見ないでね。
函館において遊郭が設置された地域は、時代ごとに異なり、主流な遊郭所在地としては、
「山の上遊郭」→「蓬莱遊郭」→「大森遊郭」
と、大火等の理由により移転し続けてきた。
【山の上遊郭】
(函館中央図書館所蔵 1801年頃の箱館地図)
箱館において、私娼について記録が登場するのは1780年頃で、「洗濯女」「裁縫女」などと呼ばれていた。
(それ以前は、和人の女性の数が少なく、そのかわり・・・・を、
権力を笠に・・・・だったケースが多かったらしいが、箱館ではそのケースは多くない気がする。
この辺りは、松浦武四郎の旅日記に詳細が記載されている・・・らしいけど、要約しか読んだ事は無い。)
山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があり賑わっていた。
1802年、実質的には遊女屋であったが「渡世茶屋」19軒が、営業願を奉行所へ提出している。
これが箱館において、官許公認の始まりであったと思われる。
以後山ノ上町界隈は茶屋町として発展していった。
1818年(文政元年)地蔵町の築島(古築島、後の船場町)への出店も許され公認の茶屋も31軒と増加した。
1857年(安政4年)、箱館奉行所は、半分つむっていた目を開かざる得ない状況に陥ってしまう。
日米和親条約によって箱館が開港した時期に、初めての居留外国人としてアメリカ貿易事務官ライスが来箱した。
「ワタシ、トテモ寂シイデース」
彼は身の回りの世話をする女性の世話を箱館奉行に依頼、箱館奉行所は老中の裁可を得て、
ライスへ「たま」という女性を引き渡したらしい。
ライスの前例を作った以上、今後居留外国人が女性の世話を奉行へ依頼してくることに備える必要があった。
「堂々と遊女屋で営業してもいいからさぁ、その代わりに・・・・」
と言う事で、年季奉公に抱えた娘たちを遊女同様に使役し、遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者に、
遊女屋としての認可などを行い、その代償に指図しだいでいつでも外国人へも女性を提供できる体制を整えた。
このような状況により、箱館にも1858年(安政5年)に、奉行の命令で売女を公認された24軒の遊女屋と
異人休息所が誕生し、公娼制度が成立した。
箱館の遊郭開設の裏には、箱館開港という歴史的事件があった事は、非常に興味深い。
箱館が開港を許された1859年(安政六年)に、江戸の吉原を模して整備された。
大門から徐々に登り坂になっており、皆朱色の格子だった。
1860年(安政七年)に、その一画を「山ノ上遊郭」として公認してからは、
その整備も進み、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、一層の賑わいを見せるようになる。
1865年(慶応元年)の記録によれば、遊女屋25軒、遊女の数329名、引手茶屋21軒、
異人揚屋1軒(奉行所との約束通り)、男芸者5人、女芸者113人とある。
このように、賑わいを見せていた山ノ上遊郭だったけど、1871年(明治4年)「切店火事」により全焼。
遊郭の形を今に残す物は何も無い・・・
(山ノ上遊郭の絵葉書が存在するけど、個人所有になっているので、ココでは掲載しなかった)
1864年(元治元年)に、遊郭の経営者たちが引き取り手のない遊女などを供養するため、
合同で建立した供養塔が、函館市船見町「地蔵寺」に残されている。
この寺は、曹洞宗の寺で高龍寺の地蔵堂だったが、戦後地蔵寺と公称する。
『有無両縁塔』
五稜郭が完成した年に、建てられた供養碑。
開港という新しい時代の陰に遊郭で働き、ここで生涯を終えざるを得なかった女性たち。
台石には建立者たちの名が刻まれている。(地蔵寺にて)
その碑の側に、風化して顔が分からなくなっている地蔵様がいる。
こちらの地蔵の台座には、多数の女性の名が刻まれている。
寺前に、高清近太夫の墓(万延元 1860)などもある。
「函館の遊郭について 2」へ
【参 考】
函館市史
函館市中央図書館蔵 絵はがき及び古地図
北海道遊里史考
「山の上遊郭」→「蓬莱遊郭」→「大森遊郭」
と、大火等の理由により移転し続けてきた。
【山の上遊郭】
(函館中央図書館所蔵 1801年頃の箱館地図)
箱館において、私娼について記録が登場するのは1780年頃で、「洗濯女」「裁縫女」などと呼ばれていた。
(それ以前は、和人の女性の数が少なく、そのかわり・・・・を、
権力を笠に・・・・だったケースが多かったらしいが、箱館ではそのケースは多くない気がする。
この辺りは、松浦武四郎の旅日記に詳細が記載されている・・・らしいけど、要約しか読んだ事は無い。)
山ノ上町と呼ばれた界隈(現在の船見町周辺)には、多くの遊女屋があり賑わっていた。
1802年、実質的には遊女屋であったが「渡世茶屋」19軒が、営業願を奉行所へ提出している。
これが箱館において、官許公認の始まりであったと思われる。
以後山ノ上町界隈は茶屋町として発展していった。
1818年(文政元年)地蔵町の築島(古築島、後の船場町)への出店も許され公認の茶屋も31軒と増加した。
1857年(安政4年)、箱館奉行所は、半分つむっていた目を開かざる得ない状況に陥ってしまう。
日米和親条約によって箱館が開港した時期に、初めての居留外国人としてアメリカ貿易事務官ライスが来箱した。
「ワタシ、トテモ寂シイデース」
彼は身の回りの世話をする女性の世話を箱館奉行に依頼、箱館奉行所は老中の裁可を得て、
ライスへ「たま」という女性を引き渡したらしい。
ライスの前例を作った以上、今後居留外国人が女性の世話を奉行へ依頼してくることに備える必要があった。
「堂々と遊女屋で営業してもいいからさぁ、その代わりに・・・・」
と言う事で、年季奉公に抱えた娘たちを遊女同様に使役し、遊女屋同様の所業をさせていた茶屋営業者に、
遊女屋としての認可などを行い、その代償に指図しだいでいつでも外国人へも女性を提供できる体制を整えた。
このような状況により、箱館にも1858年(安政5年)に、奉行の命令で売女を公認された24軒の遊女屋と
異人休息所が誕生し、公娼制度が成立した。
箱館の遊郭開設の裏には、箱館開港という歴史的事件があった事は、非常に興味深い。
箱館が開港を許された1859年(安政六年)に、江戸の吉原を模して整備された。
大門から徐々に登り坂になっており、皆朱色の格子だった。
1860年(安政七年)に、その一画を「山ノ上遊郭」として公認してからは、
その整備も進み、日本各地の商人や外国人の往来が盛んになり、一層の賑わいを見せるようになる。
1865年(慶応元年)の記録によれば、遊女屋25軒、遊女の数329名、引手茶屋21軒、
異人揚屋1軒(奉行所との約束通り)、男芸者5人、女芸者113人とある。
このように、賑わいを見せていた山ノ上遊郭だったけど、1871年(明治4年)「切店火事」により全焼。
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【参 考】
函館市史
函館市中央図書館蔵 絵はがき及び古地図
北海道遊里史考
正教会の伝道者 聖ニコライと足跡
日本に残される「イギリス領事館」を比べてみると
高田屋嘉兵衛と箱館の深い関係
まだまだ間に合う!松前町の桜まつり
碧血碑の微妙な立場と石川啄木について
水鏡に映る 早朝の五稜郭の桜の花
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Posted by 「とうちゃん」 at 06:30
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