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とことん遊ぶぞ 北海道! › 北海道開拓に思いを馳せる › 旭川市「コタンの里」に行ってみた

2011年01月12日

旭川市「コタンの里」に行ってみた

嵐山の一帯は「チ・ノミ・シリ」(我ら・祈る・山)と呼ばれ、聖なる地とされてきた。
しかし、開拓使により京都の嵐山に似ているとの理由から「嵐山」と命名された。

「伝承のコタン」は、そのような地に建設された旭川博物館の分館。


旭川市「コタンの里」に行ってみた
(ほぼ、実家から撮影)



この「伝承のコタン」、妻の実家から徒歩5分で里帰りしたときの散歩コース。
その分、しっかりと見学したことが無かった。

旭川市「コタンの里」に行ってみた

旭川市郷土博物館別館アイヌ文化の森・伝承のコタン資料館は、
4月中旬から10月中旬、偶数週月曜日は休み(祝日の場合翌日休園)
9:00~16:30で入場無料。




と、いうことで
旭川市「コタンの里」に行ってみた旭川市「コタンの里」に行ってみた

・・・・「伝承のコタン」は冬ごもり中。
どうやら今日も、社会見学の夢は叶わなかったらしい。
でも「クーチンコロの顕彰碑(右の写真)」までねぇ、囲わなくたっていいと思うけど。




名前の響きも可愛らしい「クーチンコロ」は、ぺニシンクル(上川地方)のアイヌの大酋長。

蝦夷地探検で有名な「松浦武四郎」は、1857年(安政4年)旭川で調査を行った際に、
クーチンコロに歓待され、その記録(丁巳日記)を残している。

明治政府は1869年(明治2年)、ぺニシンクル(上川地方)のアイヌを1カ所に集めて、
日本海側の「石狩場所」に労働力として移住させようとした時に、
クーチンコロは徹底した抵抗を行い、移住を中止にさせた。

しかしこの抗議への報復として、明治政府はアイヌ民族の伝統的な狩猟やサケ漁を禁止してしまったらしい。





余談だけど、松浦武四郎の「丁巳日記」「東西蝦夷日誌」などの蝦夷探検誌に残されている、
和人のアイヌ人への仕打ちの数々は、当時の明治政府から発禁処分になっただけの内容だと思う。

簡単に言うと、

男は労働力というか奴隷として徴収され、彼らの生活を維持できなくなるほど労働力を提供させる。
女は未婚既婚を問わず奪い、妾?というか奴隷とする。
残された老人や子供は餓死し、集落が消えていく。


と記載されている(らしい)。


そのような酷使の中で、アイヌの反乱として有名な「クナシリ・メシリの乱」が起きている。
この乱は、「コシャマインの乱」「シャクシャインの乱」と違い、経済的、権力的な闘争ではなく、
「虐待への怒り」から発生したものと、私は理解している。




旭川市「コタンの里」に行ってみた
(凍りかけたオサラッペ川)

この名前の解釈の歴史が面白い。

原名「オサルベツ」(川尻・葦原・川)川尻に葦原の ある川の義。
それが転訛して「オサラツペ」となり「オ・ ・サラ・ペ」(陰部・あらわれている・者)などの意に
俗解され「女神玉門を出したる処」(永田地名解)など の奇怪な伝説を生むに至った。

(知里真志保)

川の名前の由来について調べることが良くあるが、
小さな川では、「陰部」「尻」など排泄に関する用語が使われていることがあるって読んだことがあるな。

自分としては「小川と排泄の関わり」結構納得していたけど、もしかしたら後世の間違った解釈なのかもしれない。


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Posted by 「とうちゃん」 at 07:21 │北海道開拓に思いを馳せる

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