ハリストス正教会と日本人初のイコン画家

「とうちゃん」

2011年11月30日 06:18



1861年に聖ニコライが来日した土地であり、日本正教会発祥の地「ハリストス教会」。
ビザンチン様式の聖堂が函館元町の町並みに素敵になじんでいる。







1859年(安政6年)にロシア領事のゴシケヴィッチが、函館元町の領事館内に聖堂を建てたのが始まり。


1907年(明治40年)函館大火により焼失。


1916年(大正5年)聖堂が再建された。建築様式はロシアのビザンティン建築の影響を受けて、煉瓦造一部3階建ての平屋で、基礎は石造り、外壁は白漆喰が塗られ、「ロシア」で見かけるような聖堂に仕上がっている。


1983年、大正時代の建造物としては全国で二番目に国の重要文化財に指定される。


1988年、復活聖堂は3年余の大修復工事によって、当初の姿に復元され現在に至る。


2011年、「とうちゃん」が頻繁に訪れるようになる・・・









1861年(万延2年)に来日した聖ニコライ。
人々の意識が変わり始める時代とは言っても、鎖国の江戸時代。
異国の人間が、箱館の人々の耳を借りるは、大変だったろう。

彼は、布教のためにも日本の文化、歴史、古典、言語などを研究した。有名な「新島襄」から日本語を教わっていた時期もある。

1868年(明治元年)には、キリシタン禁令の中にも関わらず、沢辺琢磨、酒井篤礼そして浦野大蔵の三人に対し洗礼を行っている。

特筆したいのは、「沢辺琢磨」
元土佐藩士で、坂本竜馬の従弟。千葉道場で北辰一刀流を学んだ剣士。事情により江戸を追われて箱館に渡り、神明社の宮司澤邊氏の女婿となり、神職を継いだ。熱心な尊王主義者で鎖国攘夷論者でキリスト教を嫌っていたらしい。

最初は、聖ニコライこそ日本国を毒する禍根であると考えて、殺害すら考えていた。激しい議論の後に、熱心に聖ニコライの教えを請うようになった。

彼のような人物を改宗させるとは、話術?人柄?それとも神の加護?

迫害者であったサウロが改心によって得た聖使徒の名前
「パウェル」。これが彼の洗礼名となった。






【晩秋の函館元町で、寒さに負けず咲き続けるバラの花】





【秋風に揺れる秋桜と「とうちゃん」の心】






【後光】




「イコン」って知っていますか?

キリスト教において神や天使や聖人を模した絵、正教会において敬拝の対象の一つ。

宗教への信仰心が薄い「とうちゃん」でも、そんな「イコン」の前に立つと、
思わず頭が下がってしまう。

古くからイコンは貴重品だった。
修道士が減少している現代では、ますますその希少性がさらに高くなっているそうだ。


ハリストス正教会で描かれているイコンは、日本人最初のイコン画家「山下りん」の作。
江戸で浮世絵や洋画を学んだのちに、
明治の初期に、イコンを学ぶためにロシアへ渡航した女性画家。

日本人にイコン画家がいた事自体、初めて知った「とうちゃん」。
また一つ、函館の歴史の奥深さを知ることができた。




【玉葱】



ハリストス正教会は、ガンガン寺という名前で函館市民に親しまれている。
聖堂ができた当初、5個の鐘を使って楽器のように鳴らしていたからだ。
1907年(明治40年)函館大火により全焼した際に、鐘も壊れてしまった。
現在の鐘は、1983年に寄贈されたもの。

教会の鐘の音は「日本の音風景百選」に認定され、
土曜日の午後5時頃、日曜日の午前10時頃に鐘の音を聞く事が出来る。

・・・先日、朝のサイクリング時に聞いた気がするけどなぁ。



このブログを書いていたら、週末にハリストス正教会に行きたくなった「とうちゃん」でした。






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【参考】
日本正教会HP
wikipedia

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